南太平洋に浮かぶ常夏の楽園”タヒチ”。ブルーのコントラストが美しいラグーン、緑豊かな山々の雄大な景観、そしてタヒチの人々の温かさ。

タヒチでしか手に入らない、かけがえのない時間を求めて多くの人たちがこの楽園へやってきます。

タヒチには、ハワイアンフラの起源とされるタヒチアンダンスや、タトゥーの語源となっているタヒチ語のTatauなど、文化も独自のものをもっており、訪れる人々を惹き付ける不思議な魅力があります。

タヒチの歴史

タヒチに住む人々の先祖であるモンゴロイドはユーラシア大陸を南下し、さらに紀元前10世紀頃(約3000年前~4000年前)に東南アジア方面から太平洋を南下したといわれています。
広大な南太平洋に浮かぶ島々を発見してからサモア、マルケサス諸島などを経て、ソシエテ諸島に定着し始めたのは紀元後3~4世紀の間のこと。
それからさらにニュージーランドや、ハワイ、イースター島などに散り、14世紀頃までに現在のポリネシア・トライアングル、一大ポリネシア文化圏ができあがりました。
ヨーロッパ人がタヒチを訪れるようになったのは16世紀頃からで、その頃からスペイン船やポルトガル船がこの海域を運行するようになりました。
17世紀に入ると1767年にイギリス海軍のサミュエル・ウォリスがタヒチ島を訪れ、立て続けに1768年にフランスのルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲン ビルが、1769年にかの有名なイギリスのキャプテン・ジェイムズ・クックが金星の太陽面通過を観測するためにタヒチを訪れています。
当時、南方大陸には巨万の富があると信じられていて、多くのヨーロッパ人がその未知の富に夢を膨らませていたのです。
タヒチに来訪したヨーロッパ人たちは国へ戻り、異国の来訪者を歓迎してくれる地上の楽園があると伝えました。
フランス後期印象派の巨匠ポール・ゴーギャンもその話に魅了されてタヒチを訪れた一人です。

バウンティ号の反乱

1788年にあの有名な「バウンティ号」の反乱事件は発生しました。
パンの木の苗木採集が目的だったバウンティ号で乗組員フレッチャー・クリスチャンとその仲間はジャマイカに向かう途中で反乱を起こし、それによりウィリアム・ブライ艦長と艦長に忠実な乗組員たちを救命艇に乗せて追放しました。
その後、オーストラル諸島のツブアイ島に上陸するものの住民に拒否され、やむなく反対派の多くはタヒチで逮捕されました。
反対派の中でタヒチ島からさらに無人の孤島ピトケアン島へわたった少数は、最後まで逃げのび捕まることはありませんでした。
この頃から地域全体には商人や流れ者なども立ち寄るようになり、武器や売春、島民が免疫のない伝染病などにより人口は激減しました。
さらに1797年にイギリスの宣教師団、1838年にフランスのローマン・カトリック宣教師団が入島しました。
宣教師団は官能的なタヒチアンダンスや土着の宗教を否定し、神殿のマラエを破壊しました。キリスト教の教えにそぐわない事柄すべてに対し禁止され、プライ ドを奪われていったタヒチの人々は、次々とキリスト教化されていき伝統的なポリネシア文化は急激に衰退していきました。
時期を同じくしてポリネシア人[トゥ]がタヒチ島を中心とした全島征服を開始し、1797年にポマレ王朝を打ち立てポマレ一世として諸島の大半を支配するようになりました。
しかし、支配下の多くの島を統合するために奮闘していた女王ポマレ4世もフランスの圧力に屈し、1842年にタヒチ、モーレア両島をフランスの保護領とする条約を強制され署名をしてしまいました。
そして1880年、ポマレ5世はフランスに主権を譲渡し、タヒチはフランスのオセアニアにおける初めての植民地となりました。

フランスによる核実験

フランスの植民地となったタヒチは、急速な商業化が進み、フランス領ポリネシアの経済を支える重要産業地となりました。しかし、フランスが核実験を行って いたアルジェリアのサハラ砂漠が、アルジェリアの独立によって使用できなくなったため、新たな核実験場が必要になりました。
そして1963年、当時のフランス大統領であったド・ゴール将軍はツアモツ諸島 にあるムルロア 珊瑚とファンガタウファ という小さな環礁群を新たな核実験場にすると発表しました。
こうして太平洋実験センターが誕生し核実験は開始されるものの、フランスは世界各国から非難され、1981年になって実験は地下で行われるようになりました。
1995年に、ジャック・シラク大統領は地下核実験を新たに実施すると発表。世界中から抗議や非難の声が上がり、タヒチ島の首都パペーテでは抗議集会がこ れまでにない大規模な暴動に発展。実験は1996年1月まで行われましたが、フランス政府が核実験の終了を宣言して終了しました。